2013年9月25日水曜日

わが闘争を読みながら 第五章終了

いや、これ一文の中に修飾が多くて、日本語だと読むのめっちゃ大変なんですよね。動詞にたどり着くころには主語を忘れてるみたいな(笑)。


で、非常に進みが遅いですが、今回は第五章を終えたところまでで思った事を書いておきます。


三章から四章にかけて、彼の政治的な思想について書いてましたね。過去の、ウィーンからミュンヘンへ移ったくらいまでの当時の考え方として書いていますが、注意書きにもあるように彼が執筆した時点での思想なんだと思いました。

内容はとにかくハプスブルグ家の政治とユダヤ人をけちょんけちょんに言ってます。

全部書いてると長くなるし、サマリーするのも難しいんですが、たぶん根本的に彼は完璧主義で潔癖なのかなと感じました。

全体としてやるべきことに向かえないオーストリアの政治とどんどん居場所がなくなるドイツ系住民。対抗して起こるドイツ系の政党の体たらく。これらについて、問題点を指摘してこうすべきだという論調で話が進んでいきます。

汎ドイツ主義運動に対して、もっと民衆を扇動するような施策を打つべきだと言っていたりとか、労働者階級をベースに階級闘争に主眼を置いた切り口、マルクシズム=ユダヤ主義をペスト呼ばわりしているところなどに良く知られているヒトラー像が表れていると思います。


ただ、この辺から理論の飛躍が半端なくて煽っているような言い回しが多くなってきてます。

特に平和主義に対する論理ですね。

「国家は種(彼の中では=民族)の発展維持をいっそう可能ならしめ、摂理によって規定された自己存在の目標を達成するための心理的、精神的に同一な生物の共同社会組織である」として、経済活動を中心とした平和的、国際的国家の発展を否定し、民族が生き抜くためにあらゆる手段を取るべき集団であるべきだとしています。

そもそも人間社会の始まりが種の保存の衝動だからと言って、現代社会においてそれが最も重要視されるとはならないと思いますし、心理的、精神的に同一な生物なんて存在しないでしょ。

同じ日本人でも地域で割れば考え方も変わる。家族で割ればやっぱり違う。家族内でも親と子では違うし夫と嫁でも違います。


まぁ論理飛躍はありますが、ここで勢いをつけて第一次世界大戦のきっかけとそれへの思いを経て、自身の戦争参加の話を通して暴力が肯定される場合の持論を展開します。


体制に対抗するときに、当然その体制は大衆の支持を得ており確固とした思想があるのだから、自身の主張を守る事に専念することなく、体制側の思想を攻撃すれば成就される。


こんな感じですかね。端折り過ぎて誤解を招くかもしれませんが、まぁ暴力自体の善悪自体は気にしてる様子はありません。

彼は政治的手段で体制に対抗しようとすると潰されるか懐柔されるかになると信じて(どうしてそうなるのかは書内に記述されています)いますので、排除するには暴力しかないとしています。

そしてその暴力の担い手に理念があるのであれば攻撃することになり有利となると。


うーん、種を保存するとか言いながら、暴力を振るうとどうなるか、何のために法があるのかを完全に無視しているところが何だかなと思わせますね。

とはいえ、オランダ領のアフリカの地で金が見つかった!と聞いたイギリスが攻め取りに行く時代ですから、国家の暴力を否定する考えに至れないのも仕方ないのかもしれません。


とにかく、彼はこの状況は徹底した暴力でしか打破できないと感じていたのは確かなようです。対抗勢力は無慈悲に徹底して殲滅する覚悟を持っていたように書かれています。

そして五章は大戦後、政治家を目指すことにしたと書いて結んでいます。


いやー、なげぇなぁ。いつ読み終わる事やら…

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